ソシャゲを続けられない無力な人間の嘆き
目次
今日、ふと思い立って、リリース翌日くらいから続けていたソシャゲを引退した。
本記事には、ソシャゲを追い続けられない軟弱なオタクによる自己分析を記す。
言ってしまえば自分語り、筆者の辛みをとりあえず吐き出すための怪文書であり、現状ソシャゲの楽しみ方に不満を持たない方にとっては毒や呪いの類となりかねない代物であるため、心を強く持てない状態ではお読みいただかないことを推奨する。
内容が支離滅裂に感じられるかもしれない。読んでいる最中に具合が悪くなるのを感じたら、即座に記事の閲覧を中断し、別のことをしてほしい。
アサルトリリィ Last Bullet(ラスバレ)をやめた
こういうネガティブな内容の記事で、発端となった作品の名前を出すのは躊躇われるが、どういうきっかけがあったのかできるだけ正確に残すために明記しておく。
本記事の論旨は、本作がいかにクソゲーであるかを表現したり、現在楽しんでいるプレイヤーに対して砂をかけようとするものでは断じてなく、あらゆるソシャゲが筆者にとって同じ結末を迎えかねないことを嘆き、筆者自身のコンテンツ受容者としての軟弱さを分析し、心の整理をつけるためのものであることをご了承いただきたい。
それであっても、本作を楽しく遊んでいるプレイヤーにとって、決して気持ちの良い内容にはならないため、もしそういった諸賢が本記事を読んでしまおうとしているなら、直ちにブラウザのタブを閉じたり前のページへ戻るといった防衛策を講じてほしい。
コンテンツを追い続けられなかった負け犬の遠吠えなど、聞くに値しないものだ。目の前にあるコンテンツを楽しむ時間を、わざわざこんな記事のために費やすものではない。
やめる原因はひとつとは限らない
ゲームシステムにクソみたいなアップデートがあったとか、シナリオの質が落ちたとか、中の人が炎上したとか、ガチャ結果が見るも無惨な爆死であったとか、単に時間が取れなくなったとか、人がソシャゲをやめる理由はいくつもある。
これらのわかりやすい原因が大きくひとつだけあって、そのためにやめる場合ももちろんよくあるだろう。
筆者の長く続けてきたソシャゲをやめた経験から考えるに、いくつもの理由が積み重なり、プレイヤーとして追い続ける気力の閾値を下回ってしまうケースも少なくないのではないか。
筆者が今回やめた理由は、この気力が閾値を下回ったことによる。
体験は時間とともに薄く引き伸ばされる
大学にいた頃、同じ研究室の友人がさっさとゲームを切り上げて次のゲームに移ってしまうことに対して、「全然やりこまないんだな」と率直に1感想を述べたときに言われた言葉が、今でも強く記憶に残っている。
「俺は体験の密度を重視してるんだ」2
短い時間で濃密な体験を。これが、彼がゲームに求めるものであった。
ひとつのゲームをじっくり遊び尽くすスタイルで通していた自分からすれば、当時はあまり共感できる内容ではなかった。
ところが、それなりに長く続けてきたソシャゲをやめるたびに、いかに彼の言葉が正しいかを思い知らされる。
ソシャゲは、筆者のような軟弱者が完遂するには、終わるまでの時間が長すぎるのだ。
新しいゲームが出たとき、それは大なり小なりの新鮮さがあるものとして受け入れられる。
システム、UI、UXの面で過去に見た作品とよく似ている場合はあるが、その場合も地続きでない別の作品としてリリースされているなら、どこかしらで差別化はできる。
その新鮮さが損なわれないうちに、プレイヤーに「何が障害であり、何をすれば報酬が得られるか」3を理解させること、そして、報酬を得るための算段を建てさせられることが、プレイヤーを定着させる条件である。
無論、プレイヤーの前に立ちはだかる障害が毎回同じであったら、報酬を得るためにすべきことも変わらず、ゲームサイクルに対して感じる新鮮さは損なわれていく。
同じ手段で報酬が得られるのならと、プレイは積極から惰性へと変わり、濃密だった体験は引き伸ばされて虚無へと変貌していく。
プレイヤーとして唯一期待し続けていたメインストーリーは更新の間隔が広く、間を持たせるための代わり映えのしないイベントで限りなく虚無に近づいた作業をこなして報酬を得る日々が続く。
本筋と全く関係のないトンチキイベントも、最初は笑えるものの、これも新鮮さを感じなくなればスキップ対象だし、システムから惰性を要求されればそれはシナリオにも影響する。
よっぽど面白く、かつ刺さる内容のシナリオ・演出でなければ、体験は虚無へと引っ張られていく。
シナリオを読むためにこの虚無作業をこなす必要があるのか、という、プレイへの強い抵抗感が生まれる。
こうして時間をかけて体験が薄く引き伸ばされていくに従って、プレイを続ける気力はじわじわと下がっていく。
ちょっとしたマイナス要因4で、容易に閾値を下回り、プレイが続行できなくなるというわけだ。
ゲームを楽しむことは義務ではない
思うに、筆者はゲームを楽しむということについて神経質になりすぎなのではないか。
ゲームと向き合うとき、それを余すことなく5楽しみたいという欲求が、もはや義務感になってしまっているようですらある。
自分にとってそのゲーム6が良かったのか悪かったのか、どこが刺さって、どこが好きになりきれなかったのかを知らないまま対象から離れることに、極めて強い抵抗がある。
ゲームの終わりを見届ける前に離れてしまえば、それは自分にとって「最後まで続けられなかったゲーム」でしかなくなってしまう。
しかし、プレイを続けるだけの気力はもう残されていないのだ。筆者は長く7続くシナリオ特化のゲームを追い続けることに対して、あまりにも無力である。
無力な筆者のせめてもの抵抗
この無力感をなんとかなだめるために筆者が取れる方法は、対象を思い出にすることのみである。
作品全体を通して俯瞰できないのだから、プレイしていた瞬間、自分にとって糧となった記憶だけをなんとか抜き出して、それは良い作品であった。思い出として語れるものであったと自らを納得させ、慰める他ない。
良かったことは なんだったかなあ
このフレーズは、昨年6月にサービス終了した巨神と誓女のシナリオにある一節である。
あの作品は間違いなく終わり、もう公式から何も供給されることはないであろう。
最後まで追い続けられた作品であったため、作品全体を通して自分の中での評価を結論として出せる。8
ラスバレは自分にとって「最後まで続けられなかったゲーム」ではあるが、それでも良かったことはあるはずだ。
週一で集まってだべる機会があった
ここまで続けてこられたのは、ひとえにこれのおかげである。
アサルトリリィの世界観では、巨大なヒュージに立ち向かうため、9人が1チームとなってレギオンを結成する。
ラスバレでもこの世界観を活かしており、プレイヤー9人のチームでレギオンを結成するシステムがある。
ボスヒュージを倒す外征任務や、レギオン同士で戦うレギオンマッチがコンテンツとして用意されている。
レギオンマッチはレギオンごとに週に何度やるかの設定があり、筆者の所属するレギオンは週一で土曜夜に行っていた。9
筆者は対人要素はあまり好きではないものの、discordで集まり、通話しながらダラダラやるレギオンマッチの時間はなんだかんだで楽しんでいた。
今ハマっているコンテンツが何であるとか、舞台やライブに行ってきた感想を聞いたりとか、ゆるいながらも長く付き合ってきた友人と定期的に話す機会がある、というのは良いことだったように思う。
一柳結梨の話に決着をつけてくれた
アニメ アサルトリリィ BOUQUET では、かなり急なテンポで退場してしまった結梨だが、一柳隊全員との関係も含めてめちゃくちゃキレイに片付けてくれた。
百合を提供してくれた
アニメを見て、これを期待して始めたので、一定の期待には答えてくれたと言える。
神琳と雨嘉
アニメのエンディングでイノチを感じていたこの二人、ラスバレでもあざといほどにイチャイチャし続けてくれていた。
朋友のブルーストライク以降、特に神琳がハッチャけるタイプだとわかったのも良かった。
楓と二水
楓・J・ヌーベルとかいうノブレス・オブリージュの塊みたいな女。
育ちが良すぎて、曲がったことが嫌いすぎてめっちゃいい子だし、世話焼きな性格だからか、見ていて危なっかしい二水を放っておけないところも良い。
欲望に忠実で暴走しがちな楓にツッコミ入れるのはだいたい二水かぐろっぴだったりしてそこもまた。
成人後、飲み屋で二水に愚痴をこぼす絡み酒・J・ヌーベル概念はあると思う。
瑶と恋花
レギオンストーリーの「二人でリリィをやめて遠くで暮らそう」が熱かった。
イベントは基本的に一葉と恋花の絡みが多かったけども。
グラン・エプレ
たかなほと、1年生3人組がかなり完結してる。
姫歌が可愛いに対してあまりにも実直なのが好きだったのもあり、ラスバレ初期の頃から姫歌と灯莉の組み合わせが激アツであった。
紅巴はどちらかとくっつくというよりは3人1組という感じ。アイドルリリィステージの終盤で自分が挟まってしまう解釈違いに対する魂の叫びが最高に面白かった。
筆者が画面の前で尊みによって固まる際、紅巴も同様に昇天してくれていて安心感があった。
最後に読んだデート・ア・ライブコラボでもしっかり活躍してくれていて良かったと思う。10
ぐろっぴ
なんだかんだ、キャラクター単体で誰が好きかと言われたらぐろっぴな気がする。
場面に合わないパートボイスでストレスが溜まりがちなイベントシナリオの中でも、彼女の「なんじゃと~!?」とひめひめの「おい」は安心感があった。
アールヴヘイム
アニメでは一柳隊の影に隠れがちだったアールヴヘイムの皆さんの絡みがちらほら見られた。
入手後、ずっと亜羅椰をホームに置いていた。時折、他のメンバーに言及するところはとても良かったと思う。
どういうソシャゲなら続けられる?
シナリオが面白いの一点だけでは不足であると、FGOで学んだ。
百合が提供されればもしかしたらと思っていたが、ラスバレもだめだった。
サービス終了に立ち会えたソシャゲは、今のところ巨神と誓女のみであるが、これはかなり特異なつくりになっていたおかげであるように思う。
シナリオと演出が抜群に刺さり、2週間ごとのシナリオ更新が楽しみで仕方ない状態になっていた。
システム面は虚無を通り越して無ですらあったが、適度に放置してやればシナリオを読むことができ、強キャラクターを揃えてしまえばプレイを有利にするための作業にかかる労力が圧倒的に軽かった11のも、最後まで続けられた理由のひとつだろう。
シナリオを読む行為と、巨神と戦う行為が独立しており、ある程度巨神と戦ってシナリオを読めるようにだけしておけば、あとでじっくり読めるようになっていたのは嬉しかった。
FGOでもラスバレでも、シナリオの流れの中で戦闘が発生し、せっかく良質なテキストを読んでいる最中に薄く引き伸ばされた虚無体験が割り込んでくる。シナリオスキップ操作をして戦闘だけ先に終わらせて後で読むのは二度手間だ。巨神と誓女にはそれがなかった。
とは言え、そのつくりをすると戦闘パートそのものの要否が問われるため、すべてのソシャゲにこうなってほしいとは言えない。
巨神と誓女でこれができたのは、戦闘パートにおける巨神の見た目・演出も世界観の重要な要素として表現していたからで、話の途中だがという枕詞に呼応する形で呼び出されるだけのワイバーンやヒュージに同じ役割が持ち続けられるとは考えにくい。
そもそも虚無を通り越した無のシステムが増えてしまうべきではなく、巨神と誓女でそれを許容できていたのは、単にシナリオに割り込まなかったからというだけだ。
戦闘の体験が虚無化することを避けられないのであればせめてシナリオに割り込ませないでほしい。しかしこれは、シナリオ表現に戦闘を含む以上、無茶な要求である。
システム面の虚無を差し引いても良いと思えるシナリオ・演出で引き止め続けてほしいとするほうが、まだ現実的か。
ここまで書いたことを総合すると、下記2点が重要であるように思う。
- プレイを有利にするための行動にかかる労力の重さ(プレイを続ける気力の閾値の高さ)
- プレイ中に得られる快楽の極大値の大きさ(プレイを続ける気力の回復量の多さ)
プレイを有利にするための行動にかかる労力の重さ
キャラクターを強化するためにかかる時間的・金銭的コストの重さと言い換えても良い。
ソシャゲはプレイヤーがやることを提供し続けるため、これを重くしていく傾向にある。
プレイを有利にするためにできる行動を増やせば増やすほど、これは重くなり、プレイを続ける気力の閾値が高くなっていく。
かといって軽くすればするほど良いかというと、おそらくそう単純なものでもない。
プレイヤーからすれば軽いほうが短期的には嬉しいが、この労力を極端に軽くすると、プレイヤーがコンテンツに触れる時間、落とす金銭の総量は減っていく。
結果として、コンテンツを提供し続ける側の体力がなくなり、プレイヤーは期待していたシナリオの続きを読めないままコンテンツ側が終了してしまう。
筆者の今回の嘆きは場合によっては解消されるかもしれないが、それでコンテンツが半端な状態のまま終わってしまうことを良しとは言い難い。
巨神と誓女を最後まで遊んだという充実感が得られたのは、巨神と誓女がサービス終了に際して作ったものを全部吐き出すお祭り期間を設けてくれたからであって、そこまでのサービス精神を求めながらソシャゲの早期終了を望むのは、流石に強欲がすぎるというものだろう。
さて、この労力の重さを考える上で、期間を区切った行動12の重さは、気力の閾値の高さに与える影響が大きい。
これが重すぎる場合、報酬取らなくて良いか、というより、報酬取れないなら続けなくて良いか、と考えてしまう人も少なからずいるはずだ。
逆に軽すぎる場合、早々にイベント報酬を取り終わって「虚無期間だし」と別ゲーに移動、そのまま戻らないケースもあろう。
要するにこの労力の重さの調整とは、プレイヤーをゲームに引きつけておきたい運営側と、長く続くソシャゲに気力をそこまで使えないプレイヤーとの綱引きになる。
運営が強く引きすぎれば、気力の少ないプレイヤーはあっさりと綱を手放してどこかへ去ってしまうし、引く力が弱ければ気力のあるプレイヤーはあっさり綱を回収して、結局どこかへ去ってしまう。
ちょうどいい力加減はプレイヤーごとに異なるので、すべてのプレイヤーが落とす金額の総量が最も大きくなるような絶妙なバランスで引き続けるのが運営にとっての理想である。
しかも、長期間続けるのであれば、プレイヤーの財布や気力を疲弊させないバランスを模索しなければならない。人間に可能な芸当か?
運営は当然プレイヤーの行動をモニタリングしているだろう。
つまり、この重さが合わないと感じたら、多くのプレイヤーとの間に気力の差があるか、運営が重さの調整をミスっているかのどちらかだ。
後者であれば遠くないうちにプレイヤー人口が無視できないレベルで減少し、サービス終了へ向かうことになる。
筆者の場合はおそらく前者であろう。同じ理由でやめてしまった人もいるかもしれないが、コンテンツの発展を願う希望的観測として、多数派ではないと信じたい。13
プレイ中に得られる快楽の極大値の大きさ
良いシナリオ・演出を見てテンションが上がったり、キャラクターの成長を実感したりして得られる快楽の極大値によって、プレイヤーの気力は増減する。
始めたばかりであれば、キャラクターを成長させたりガチャで良い引きをして障害をクリアし、報酬を得ていくプロセスに快楽を感じるだろう。
できなかったことができるようになる、はプレイヤーにとって新鮮さとなり、快楽となる。
長く続けていると、ガチャで良い引きをする確率は落ちていく。14
キャラクターの成長も青天井にするわけにはいかない。
つまり、数値的な成長から得られる快楽の減少を受け入れるしかなくなっていく。
良いシナリオ・演出でカバーするとした場合、そこで得られる極大値に対し、割り込みによって虚無倍率15が乗算され、本来得られたはずの快楽が損なわれる。
筆者はこういう経験をこれまで繰り返してきた。シナリオ特化のはずなのにシナリオを読むのが億劫になっていることに気づいたとき、風前の灯火であった気力の残り滓が消えるのを感じた。
これを続けていても、気持ちよくなれない。その絶望とともに作品から離れなければならないのは、辛いものである。
今やっているソシャゲも同じ運命を?
作品から離れなければならないことについては、まだ受け入れられる。
ソシャゲは、本来なら始めるのもやめるのも自由だ。
コンテンツに対して真剣すぎるクソ真面目な性格が生んでいる辛みであることくらいは、筆者も自覚している。
今触れているソシャゲや、これから触れるであろうコンテンツに対して、もしかしたら同じように絶望して去ることになるかもしれないという恐怖が、筆者にとっては一番苦しい。
好きなものを好きでなくなる恐怖とでも言うのだろうか。これでは、どうせ失うのだから仲間なんか作らないほうが良いと言って誰からも距離を取るトラウマ持ちキャラである。
2ヶ月続けてきたヘブンバーンズレッドは、まだ新鮮さを保っている。
これまで触ってきたソシャゲと違ってフルボイスであること、3Dモデルを駆使して演出面に凝っていること、麻枝准シナリオが刺さりやすいと経験的にわかっていることから、もしかしたら今回は今までと違うかもしれないという淡い期待だけかすかに持っている。
ここまで来ると、古くから付き合いのある友人に言われた「君はクソ真面目なんだよ」が心の支えにすらなる。
もうちょい気楽に構えられんものかね、ぷらずま君。
- 嫌味など全く抜きにして。
- 一字一句これと同じではなかったかもしれない。もはや10年以上も昔の話だ。
- ゲームとは、プレイヤーが障害を乗り越えてその先で報酬を得て、そして次の障害へと向かっていくというサイクルで回るシステムである。
- 人によってはマイナス要因ですらないこともある。今回も、アーセナルジェラシーの復刻が始まったことと、その特効メモリアが有利属性ガン無視で光だった、というくらいの些細なトリガーであった。
- 無論、自分に合っている範囲で。
- ある程度腰を据えて付き合ったゲーム。
- 長くと書いているが、ラスバレは2021年1月開始のため、1年と3ヶ月程度しか経っていない。これだけでも筆者には長い。
- 断片的にしか明かされなかったシナリオが読みたいとは今でも思うが。
- 最初期は驚くべきことに毎日開催していた。今思い返しても正気じゃないよなと、度々レギオンメンバーで笑いながら話したものである。
- コラボ先は絵師しか知らないので、トータルでは「なんか良い感じだった」程度でしかなかったのだが。
- 月一でやってくる絹の塔だけはちょっと面倒くさかった。
- すなわち、デイリーミッションやウィークリーミッションであったり、期間限定イベント中のミッション。
- 統計を取る気力もないので、やめた理由に共感いただけたとしても筆者が慰められる以上の意味はない。
- 良い引きと判断するための敷居が高くなっていくというほうが正確か。
- 1未満の値。